「色彩をもたない多崎つくると、彼の巡礼の年」について思うこと

村上春樹作品を、読み始めたのは 幾つの時であったろう。

20代前半であったことは間違いない。正確に思い出せないほど時間が経っているということだ。当時、かっこいい生き方に対しての憧れが強い、軽薄な若造であったことは否定できない。

ほかにも、流行っていた片岡義男の小説なんかを読み漁っていたし、大学を出て、務めを辞めて、音楽なんかを続けていたのだから、今思い返せば、ろくな人間ではなかった。

それでも、やはり「僕」や「鼠」の生き方に憧憬を禁じ得なかったし、懸命に毎日を生きるだけで、それでいいと自分で自分を勝手に肯定していた。

そんなわけで、初期三部作に対しては、強い思い入れがある。常々、書かせていただいているが、音楽も小説も、自分の光り輝いていた時代を思い出すためのタイムマシーンだ。寝る時間を惜しんで、没頭できたのは、「国境の南、太陽の西」あたりまでだと記憶している。内容も忘れかけている作品もあるが、もちろん、ほとんどの村上作品は読んでいる。

神懸かり的な比喩のうまさ、登場人物の設定の不可思議さ、一人称と三人称の組み合わせなど、いまでもファンであることはまちがいない。が、正直、予約までして、発売当日に読むまでではなくなった。ある種のパターンを感じてしまうからだろうか。それだけ歳をとったせいなのか。



それでも、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」をAmazonでポチった。4月20日には、増刷分のうちの一冊が、手元に届くだろう。

今回も、あの若かりしころを思い出させてくれることを切望しながら、またページをめくるのだ。